男と「婦人」

「婦人」は職務に忠実な肖像画だ。どんなときでもグリフィンドール寮へ続く入り口を守っている。

 夜中に抜け出して遊び歩くのが好きな生徒もいるが、合い言葉をきちんと言えば通す。反対に、合言葉をきちんと言えない生徒は昼間であっても通さない。規則を徹底しなければ肖像画として合言葉を設ける意味がなくなってしまうからだ。

 今日はもう、みんな寮へと帰っているはずだ。合言葉を頻繁に忘れてしまう子どもも、すでに寮生と共に中に入っている。今夜は悪戯好きな子どもたちも外を出歩いてはいない。

「婦人」の本日の仕事は終了したと言える。

 恐ろしい脱獄犯や、それを捕まえようとする吸魂鬼が近くをうろついているときに、わざわざ外へ出ようとする者はほとんどいないのだから。それでもたまに出ようとする勇敢な子どもはいるにはいるが、今日は大人しく眠っているようだ。

 だが「婦人」はまだ眠りに就いてはいない。

 いつ何時、寮の中にいる生徒たちがおそわれてしまうかわからないのだ。うつらうつらとしてはいたが、「婦人」は警戒を怠らなかった。

 でも――少しくらいは眠ってもいいのではないかしら。

 視界に入る絵画たちはもう眠っている。

 ふあ、とあくびをしていると、暗闇から足音が聞こえてきた。

 こ、こ、と静かに床を叩く音が聞こえる。足音を殺すように動いているようだ。一歩ずつの音は大きくないが、周りがあまりにも静かなためによく響いて聞こえる。

「婦人」は管理人のフィルチが来たのかと思った。それにしては出歩く時間が遅過ぎるし、無言で歩いているのもおかしい。彼は大抵、傍らを歩く猫に話しかけながら移動している。静かに歩くなど彼らしくない。

 不審に思い、「婦人」は目を凝らして前方の闇を見た。

 闇の中から、ぬぅと出てきたのは幽鬼のような男だった。

 枯れ木のように痩せ細った身体に、ボロボロのローブを纏っている。ざんばらになった髪の隙間から、妙にギラついた目が覗いていた。

 男は迷うことなく「婦人」の前まで来て立ち止まった。

「婦人」の前に立つと、男は口の端をぐいと吊り上げて皮肉げに笑って言った。

「スタルトス・レェイト(Stultus rat)」

 掠れた声だった。しかし健康な声帯で発していたら、多くの女性の耳を虜にしていただろうと容易に想像できる声だった。

 この声の持ち主を、「婦人」は知っていた。

「愚か者のネズミ(スタルトス・レェイト)じゃあ、やっぱり開けてくれないか。いまの合い言葉は何なんだ?」

 男は笑って言った。

「何であろうと、貴方――シリウス・ブラックに教えることはありません」

「婦人」は震える声で言い返した。男はその名を聞いてひくりと肩を動かした。

 シリウス・ブラック――今年、アズカバンを脱獄した殺人者だ。この男を捕らえるために吸魂鬼がホグワーツの近くをうろついている。グリフィンドールの生徒達もこの男の存在に怯えていた。

 この男も、かつてはグリフィンドールの生徒だった。

 艶やかな黒髪を持つ、美しい青年だった。仲の良い三人の生徒と共に、寮からよく抜け出していたことを覚えている。

 だからこそ、彼がアズカバンに収監されるような罪を犯してしまったことも、またそこから逃げ出してホグワーツへと襲撃しに来たことも、信じられなかった。――否、信じたくなかった。

「私は、貴方のことをよく覚えているわ。貴方たちは眠る私をよく叩き起こして出歩いていたもの」

 男は嘲るようにハッ、と息を吐いた。

「婦人」は男に気取られないよう、わずかばかりに目を動かして周囲の絵画を確認した。騒がしさに目を覚ました絵画たちが慌てて絵の中を移動している。

 校長室へ知らせに走っているはずだ。「婦人」はダンブルドアが来るまで時間を稼げばいい。

「婦人」は会話を続けるために口を開いた。

「どうしてこんなことになってしまったの? 貴方はあんなことをするような人ではなかったはずよ」

 男の肩が再び震えた。

 男の罪は聞いている。「例のあの人」に心酔し、かつての級友――おどおどしながらもこの男たちについていた生徒だ――を含めてマグル数十人をまとめて爆破し、殺したのだ。

 輝かしいばかりの笑顔で学校生活を送っていたあの青年が、そんなに恐ろしいことをするとは。

 男は、低く、唸るような声で言った。

「……貴女は見ていただけだ。見ていただけではそいつの本質はわからない」

 昔から、そのような恐ろしい本質を秘めていたとでもいうのだろうか。

 たしかに「婦人」は見ていただけだ。それも、寮を出入りするときに見ていたのみである。七年間、彼の出入りを見守ってきたとしても、たったそれしか関わっていなかったのだ。

 知ったつもりになってはいたが、「婦人」の知らない面の方が多いだろう。

 それにしては会話が成り立っていないような感覚がある。同じことを話しているはずなのに、別のことを話しているようだ。

「昔のことはどうでもいい。早く開けろ」

 歯をむき出し、威嚇するように男は言った。

「いいえ、開けません」

「婦人」はきっぱりと言い切った。ダンブルドアはまだ来ない。

「子どもたちは私が守ります」

「子どもたち?」

 男から力が少し抜けたのがわかった。

「貴方の狙いはハリー・ポッターでしょう。この子も、他の子どもたちも、私が守ります」

 男の眉間が寄せられる。困惑――いや、悲哀だろうか。薄暗いせいで表情がよくわからない。

 絵画へと目配せをした。助けが来るまでまだ時間が要るようだ。「婦人」は会話を長引かせるために新しい話題を探した。

 間もなく、男には無視できない話題を見つけた。

「どうして、ジェームズ・ポッターを裏切ったのです?」

「――あ?」

 ぎょろ、と血走った眼が「婦人」を睨んだ。「婦人」は叫び出しそうになった自分の声を必死で飲み込んだ。

「婦人」はグリフィンドール寮の前に設置されてからずっと、他の場所へ出歩くようなことはしていない。だが城の肖像画たちは色んなところで色んな話を聞いてくる。彼らの間にあった出来事も概ね聞き及んでいた。

「ジェームズ・ポッター――ハリー・ポッターの父親は貴方の友人だったでしょう。貴方たちは揃って私を越えて、夜中に出歩いていました。それなのになぜ――」

 最後まで言うことはできなかった。

「知ったような口を利くな!」

 男が叫んだ。咆哮にも近い雄叫びだった。

「ここを開けろ!」

 男は手を振り上げた。何かを持っている。ナイフだ。男は短刀で「婦人」を切りつけてきた。「婦人」は動くことができない。「婦人」にできたのは悲鳴を上げることだけだ。

 痛みはない。だが身体(絵)が切り刻まれていくのがわかる。

「見ぃたちゃった、見ぃちゃった! 癇癪持ちのシリウス・ブラック!」

 男の手がやっと止まった。ピーブズが心底愉快そうに煽って空中を跳ね回っていた。周囲がやっと騒がしくなってくる。

 男は大きく舌打ちをして「婦人」の前から去った。

 残された「婦人」はしばらく呆けていたが、近づいてくる足音にハッと我に返った。

 こんなに傷だらけの身体を大勢に見られるのは嫌だ。「婦人」は身を隠すように近くの絵画を渡って逃げた。

 これほどまでに痛めつけられたというのに、身体の傷よりも、耳に残った男の叫びの方が心を痛めるような気がしたのは、なぜだろう。

 

end.