来週、ホグワーツの夏休みが明ける。
薬草学の教授となったネビルは、生徒たちが学校に入ってくるその日よりも少しばかり早く学校に戻った。
ネビルが生徒だった頃にグリフィンドールの寮監を務めていたマクゴナガル先生は、校長となったいまでもかなり早くから学校での仕事を始めている。それでいて長期休暇中はしっかりと自由時間を満喫している――今年の夏休みはアイルランドのクィディッチ・チームの試合を観に行く予定だと先学期末に話していた――からすごいと言う外ない。
まだ教授に就任して間もないネビルは、授業開始までの準備に時間がかかる。
着任初年度は準備が間に合わなかった上、緊張も相俟ってとんでもない大失敗をしてしまったものだ。
ハグリッドが「気にするな、俺の初授業なんか、もっと酷かったろう? え?」と言いながら分けてくれたロックケーキの固さは今でも覚えている。
失敗したにもかかわらず、なおもネビルを信じてくれたマクゴナガル先生の想いも有り難かった。
幾度もの失敗とたしかな成功を積み重ねて、この頃やっと一人の教授としての授業の進め方を掴むことができた。
今年度は、旅行先から直接ホグワーツに戻ったので、予定よりも早い到着となった。だがもう、ネビルには焦燥も動揺もない。
ネビルは旅行鞄を自分のデスクに置き、鍵を開けて蓋を開けた。
詰め込んだ衣類はひとまず無視して中から目的のものを取り出す。旅行先で採ってきた植物を入れておいたガラス瓶だ。割れないように包んでいた靴下を剥ぎ取って、瓶を軽く振ってみた。瓶いっぱいに入れておいた海水の中で、灰緑色の植物がゆらゆらと揺れる。
コルシカへ行ったときに、たまたま見付けることができた鰓昆布だ。別の魔法植物を採るために行ったところだったが、見付けたときに案内人の魔法使いに頼み込んで採取させてもらった。
水底に揺れる鰓昆布に気づいたときにたまらなく懐かしい思いがこみ上げてしまい、我慢することができなかったのだ。
もちろん、当初の目的の植物の種子も無事に採取することができたので、大満足の旅行となった。
鰓昆布にはちょっとした思い出がある。あれは、ネビルが四年生だったときのことだ。
ネビルの同級生であり友人でもあるハリー・ポッターが、三校魔法学校対抗試合で、これを使った。
ハリーはすごい魔法使いだ。
過酷な運命の中で勇敢に戦う人だった。
毎年、とても大きな何かに巻き込まれ、あるいは自ら立ち向かって戦っていた。彼はネビルの一年生の頃からの憧れの友人であり、誇らしい人でもあった。ハリーは何でもできる。ネビルは漠然とそう思っていた時期があった。
しかし、そんなハリーでも、深い湖の中で一時間も泳ぐ術を持っているのかどうか定かでなかった。
上級生であり、その中でもさらに優秀な能力を持つ選手たちが、見たこともない呪文を使って湖に飛び込んでいく。
ハリーはどうするつもりなのだろうと固唾を飲んで見守っていたら、彼は何かを口に含んだ。
間もなくして、苦しみ出したかと思うとすぐ湖の中に飛び込んでいった。
後で、ハリーは鰓昆布を食べて、自分の身体に鰓を作り出したと知った。
試合が終わった後、当時の魔法薬学の教授であるセブルス・スネイプ先生がハリーの道徳心溢れる行動など気にした様子もなく彼に詰問したことを思い出す。
これまた後で聞いたことだが、ハリーの使った鰓昆布は、スネイプ先生の薬品庫から盗み出されたものだったらしい。
ハリーのことを想った、屋敷しもべ妖精の友達が盗んだものだった。
ネビルは生徒だった頃、スネイプ先生が恐ろしくてたまらなかった。
在学時にネビルが苦手とした教科は山ほどあった。得意な教科の方が少ないくらいだ。数ある苦手科目の中でも、魔法薬学は特に苦手だった。
ネビルは元から物覚えがあまり良くないし、手先が器用でない。それなのに、魔法薬を作る工程には複雑で繊細な作業を求められることが多い。
材料の分量を間違えたり、入れる順番が違っていたり、果ては鍋を掻き回す数が違っていたりするだけで目的のものとは全く異なる薬が生まれてしまう。
グリフィンドールで最も賢いハーマイオニーに助けてもらわなければ完成できなかった薬がたくさんあった。
スネイプ先生はとても丁寧に――ねちっこくとも言う――教えてくれたが、ネビルはそれらの手順を全て覚えて再現することが苦手だった。
スネイプ先生はそんなネビルが気に入らなかったようで、何度も槍玉に上げられた。
ちゃんとやらなければ怒られる。
でも、ちゃん聞いて、ちゃんとやっているつもりなのに上手くできない。
だから、スネイプ先生が怖くて仕方なかった。
ハリーもまた、スネイプ先生を苦手としていた。
苦手、とはまた違う感情かもしれない。
ネビルがスネイプ先生に抱いていた感情よりももっと濃く、複雑な感情を抱いているように見えた。
彼はネビルよりもずっと執拗に虐められていたように思う。
ハリーもまた、魔法薬学を苦手としていた。しかし、ネビルほどではなかった。
スネイプ先生の指示に従って、指示通りの薬を作り上げていたことが何度もあった。だがスネイプ先生はハリーがきちんと成功したことすら気に入らないようだった。
もちろん、ネビルが極希に成功したときも気に入らない様子で、必ずハーマイオニーの介入を疑っていたが――その推測は当たっていた――ハリーが相手のときはネビルを相手にしていたときよりも、もっと理不尽な責め方をしているように見えた。
彼の父親とスネイプ先生の間に、何か因縁があるらしいことは当時から噂で聞いていた。
スネイプ先生はハリーだけに特別に憎悪を込めた目で見ていたし、ハリーもまた、スネイプ先生を嫌っていた。
けれど――とネビルは持っていた瓶を棚に置いた。
スネイプ先生の抱えていたものについて、全てが終わった後にハリーから聞いた。
あのとき、ハリーが何を想いながら話してくれたのか、ネビルは判断できなかった。
一緒に話を聞いていたマクゴナガル先生は目にいっぱいの涙を溜めて、堪えるように鼻の穴を膨らませていた。
話し終わった後のハリーの目にはもう、あのときの憎悪は残っていなかった。
もしも、とネビルは時折考える。
もしも、ネビルが薬草学の教授となったときもずっと、スネイプ先生が魔法薬学の教授であり続けていたら、彼は何と言ったのだろう、と。
思い切り嫌味を言ってきただろうか。
皮肉もぶつけてきただろうか。
それともあの、唇をめくり上げる、あの強烈な顔をして睨んできただろうか。
想像して、思わずくすりと笑みをこぼした。
同時にドアをノックする控えめ音が聞こえた。
「どうぞ」
声をかけると、現在の魔法薬学の教授であるホラス・スラグホーン先生が顔を覗かせた。ネビルの姿を認めると、パッと表情を明るくする。
「おぉ、ロングボトム先生。やはりお戻りになっていましたか。先ほど、フィルチさんから貴方が帰ってこられたと聞きましてね」
「たった今、戻ったところです。何かご用ですか?」
「いやいやいや、用というほどのものではないんですがね。夏休暇の間に、貴方がコルシカへ行かれると聞きましてね。何でも今、地中海ではある植物が大繁殖をしているとか。それで、もしから……その、ロングボトム先生は、地中海には行かれたましたかな?」
スラグホーン先生の目がちらちらと旅行鞄に視線を送っている。
言わんとしていることはわかったので、先ほど棚に置いたばかりの瓶を取って見せた。
「はい、行きましたよ。鰓昆布をたくさん採ることができました。先生がお求めのものはこれですよね? 良かったら一瓶差し上げます。僕の分はまだあるので」
「よろしいのですかな!」
スラグホーン先生は目を輝かせてずんずんとネビルの方へと寄ってきた。かっさらうような速さで瓶を取リ上げる。
「いやぁ、丁度、鰓昆布を切らしていましてね。助かりました。ではまた、新学期で」
受け取るだけ受け取って、一度も振り返ることなく去ったスラグホーン先生の背に、「ではまた」と苦笑しながらネビルは返した。
鰓昆布がいったい何の、どのような魔法薬に使うのか、ネビルには今でもよくわからない。
鰓昆布が盗まれたと騒ぎになっていた当時もきっと、何かに使うつもりで薬品庫に置いていたのだろう。
もしかしたらスネイプ先生に、こうやって採取に植物をお裾分けした未来もあったのかもしれない。
ネビルは有り得なくなってしまった未来を思い浮かべ、そっと目を伏せた。
end