あの男が影の薄い姿で帰って来ることはない、とグリフィンドールのゴーストは言った。あの男のことを少なからず知っている者は皆、同じことを考えた。彼が痕跡を残すことも、残した痕跡を辿って帰って来ることもない。誰もがそう考えていた。
誰に何と諭されても、ハリーだけは彼の帰りを待っていた。彼の身に何が起きたのか、頭では理解していたし、心でも理解しようとしていた。それでも一縷の望みを捨て切れずにいたのだ。
いつか帰って来るのではないか。
抱いていた期待はとても小さいもので、その小さな期待に縋っていた。
「ぼくと一緒に暮らしてくれるって言ったのに」
どうして約束を守ってくれなかったの、という言葉を飲み込む。
理由が分からないほど愚かではなかった。
彼と打ち解けたきっかけは父だった。今では父親よりシリウスのことを考える時間の方が遥かに長い。流す涙の量も、父親のためのそれとは比べ物にならなかった。
暗い夜空に浮かんでいるはずの星の輝きが霞んでいく。歪んだ視界のまま空を見続けることができず、顔を伏せ、膝を抱え込んだ。
降り落ちる雪が、自分を覆い隠してくれたらいい。
身体の感覚はほとんどなかった。ハリーは突き刺す寒さに構うことなく、顔を埋めた腕に力を込める。
「ポッター」
高慢な響きを持つ声が自分を呼んでいる。耳に届いてはいたが、無視した。小馬鹿にした調子でハリーを呼ぶ男は、身近に一人しかいない。声だけで正体が分かるようにはなりたくなかったが、付き合いが長い上に関わりも深かったせいでなりたくないものになってしまった。
「おい、ポッター」
相手はしぶとくハリーを呼ぶ。それに応えるだけの余裕はこちらにない。
「おい、ポッター! ぼくの声が聞こえているのか!?」
すぐに見切りをつけて何処へなりとも消えてくれたらいいのに、諦めの悪い男だ。
ハリーはかじかむ両手を使って耳を塞ぐ。
「聞こえているんだろう! どうして無視するんだ!?」
塞いでいるのにも関わらず、彼の声はしっかりと脳内に届く。態度のみならず、声も遠慮を知らないようだ。
唐突に、手首に熱を感じた。目を見開くと、声の主がハリーの両手首を掴んでいる姿が視界に入った。
「頼むから、もう、戻ってくれ」
絞り出すような、掠れた声だった。俯いた顔からは表情を読み取ることができない。揺れるプラチナブロンドの髪の隙間から、苦渋に満ちた瞳が覗いた。縋るような眼がハリーを捉える。
グレーの目に、痩せこけた自分の顔が映った。
す、と胸の中のしこりが解けたように思えた。
ロンやハーマイオニーたちが、今までに何度も自分の顔を覗き込んでいたような気がする。多くの声をかけられたような覚えも、何となく残っている。記憶は朧気で、いつのものだったか定かでない。周囲を見渡してみたが、目の前の男を除くと、人の気配は他になかった。
随分と心配をかけてしまったようだ。後で謝らなくてはならない。自身の体たらくに嘆息した。
「ポッター?」
ハリーの様子が変わったことに気づいたのか、眼前の男が顔を上げた。
我に戻してくれた相手であるとはいえ、この男に謝罪や礼を述べるのは癪に障る。
「戻るんだろ。行くよ、マルフォイ」
迷った末に出した言葉は、何とも素直さに欠けていた。安堵からか、あるいは呆れからか、手首を掴んでいた力が緩む。拘束を放し、代わりにその手を握ってやった。手の平が熱い。
「ぼくに指図するな」
高圧的な台詞と裏腹に、その目は楽しそうに笑っていた。つられて、ハリーも口角を上げる。久しぶりに動かした表情筋は強張っていたが、笑みらしいものは浮かべられたはずだ。
ハリーは月を見上げた。欠け一つない月が辺りを照らしている。
待つのは止めた。この、鼻持ちならない男に心配され続けるのも性に合わない。彼のためにできることをしよう。
満月の影に黒い犬を見たような気がして、ぎこちない微笑みをこぼした。
end.