今年から、ビルの一つ上の兄がホグワーツ魔法学校に入学する。入学案内書が家に落とされた日から彼はわくわくして仕方ないのだろう、落ち着いて座っている時間が極端に短くなった。
自分はグリフィンドールに入れるだろうかと、家族に訊いて回っていた。悪戯好きの双子の兄たちはからかい、生真面目な兄はそれを窘めてグリフィンドールに入るに決まっていると言い切る。両親は初めこそ真面目に、グリフィンドールだろうよ、と答えてくれたが最近はうんざりしてきたらしく応対がなおざりになっていた。長女も長男は既に『隠れ穴』から離れて暮らしているため、彼の『どの寮になると思う?』攻撃の被害には遭っていない。
この攻撃の一番の被害者は自分だ、とビルは思う。
自分はまだ年齢が達していない。そもそも入学案内書自体が来ていないのだ。来年になれば自分にも同じものが来ることはよく分かっているのだが、チャーリーを羨ましく思ってしまう心は止められない。
チャーリーは、ビルにも等しく例の攻撃をぶつけてきた。何処に入ると思う、などと訊かれてもビルには分かるはずもない。さあ、としか答えることしかできなかった。そのことを質問者本人も重々承知しているはずなのに、それでもなお訊ねてくる姿は、自慢しているようにしか感じられなかった。
普段はどの兄も皆優しい。次男と三男の兄たちにはよくからかわれるが、自分も悪戯は好きなので、それも含めて皆が大好きだ。
だが、兄たちや姉との年齢の差を感じる度に、思ってしまうのだ、
ずるい、と。
ある決まった話題が上ると、彼らを羨ましがらずにはいられなかった。
一つはホグワーツに関する話だ。彼らはいつも、ビルの知らない場所の話題を持ち出しては盛り上がる。去年までは五男の兄もその話題についていくことができなかったのに、その兄は今年から彼ら仲間入りしてしまう。だから、彼らが羨ましい。
ホグワーツ以外にももう一つ、彼らを羨ましく思うことがある。
その原因が、彼だ。
彼が『隠れ穴』へ来たときは、羨ましい、という言葉で表しきれない思いが胸に渦巻いてしまう。
問題の彼の声が玄関から響いた。
「お邪魔します、ウィーズリーおばさん」
「いらっしゃい、ハリー。待っていたのよ!」
ハリーは、長男と同い年であり、親友でもあった。英雄として名高い彼を知らない者は魔法界にはいない。本来ならば雲の上の存在であるはずなのに、頻繁に『隠れ穴』へ遊びに来てくれる。そのせいか、ウィーズリー兄弟にとってはとても身近な存在だった。
どれほど忙しくても毎年一度は必ず遊びに来てくれるこの人が、ウィーズリー家の全員は大好きで仕方なかった。
「やぁ、ハリー。久しぶりだね! 元気だった?」
「ほら、これを見て。また試作品ができたんだ!」
「こんにちは、ハリー。今からふくろう試験の対策をしておこうと思っているんだけど、何処から手を着けたらいいと思う?」
「ねぇねぇハリー! 僕、今年からホグワーツに入るんだよ! どの寮に入るかな!?」
押しかける兄弟たちに苦笑するハリーの横で、僕も帰ってきたんだけど、とロンが口を尖らせた。
一通り挨拶を済ませた後、ハリーは小首を傾げた。普段より一人足りないことに気付いたらしい。
いつもならばビルもハリーに飛びついている。誰よりも早く馳せ参じた。しかし、今日は階段に座り込み、膝を抱えてハリーたちの方を見ているだけだ。
ついこの間――一つ上の兄であるチャーリーに入学案内書が届く前――までは近くに感じたのに、今では遠くに感じる。
ハリーが『隠れ穴』に来ると嬉しいし、一緒に遊べたら楽しい。それなのに今は詰まらない。
あの兄弟たちは皆、あのハリーがかつて通っていた学校へ行くのだ。
自分がまだ行けない、あの学校へ。
唇を強く噛み、顔を伏せた。
「ビル?」
「――っ!」
ハリーが名を呼んだ。
こちらへ近づいて来る。
察した瞬間に、ビルの足は動いた――ハリーのいる方向とは反対側へ向かって。
ビルは階段を駆け上がった。
そのまま部屋へ飛び込む。
兄弟が多いため、ビルの部屋は一人部屋ではない。チャーリーと同じ部屋を使っていたが、そのチャーリーはまだ階下だ。ドアを勢い良く閉め、ベッドに身体を投げ飛ばす。
頭から布団を被った。
下から家族の楽しそうな声が聞こえたが、耳を塞げば聞こえなくなる。
ハリーに会いたい。
ハリーに会いたくない。
正反対の気持ちがビルの頭の中を引っ掻き回す。自分の感情を整理できない。
ただ、強く唇を噛むことにより、涙だけは流さないよう堪えていた。
自分の中に沸き起こる激情を抑えようと手の平を押しつけていた耳に、かすかなノック音が届いた。
気のせいだろうか。
ゆっくりと、布団から顔を出してドアを見てみると、今度はさっきよりもはっきりとノック音が聞こえた。
チャーリーが戻って来たのだろうか。いやそれならばノックせずに開け放つ。では他の兄弟か。一体何の用で来たのだ。
様々な予想が浮かぶが、それらしい回答をはじき出すことはできなかった。
応えることができず、黙ったまま見守っていると、ドアは静かに開けられた。
「ビル? 入るよ?」
ハリーだった。
額に稲妻型の傷痕のある彼の姿を視認した直後、ビルは再び布団を被った。ハリーが苦笑した気配がしたが、気のせいだと決めて目を瞑ってしまう。
ベッドが沈むのを感じた。傍らにかすかな熱を感じる。
「ねぇ、ビル」
話しかけて来るハリーの口調は穏やかだ。だが、彼の口から何が飛び出すのか分からない。それを考えると、ビルの心中は穏やかではなかった。
少しばかり頭の冷えたビルは、自身の行動を振り返る。
ビルはハリーの顔を見るなりすぐに飛び出した。失礼極まりない。
どれほど怒られるのだろう。
布団の中で身構えたが、いつまで経っても怒鳴り声は届かない。
恐る恐る布団から覗き見たハリーの顔は、口調と同じく穏やかなものだった。ビルの目を見ると、にこりと微笑む。
その笑みに、自分の頬が赤く染まるのを感じた。反射的に布団の中に戻ってしまう。
前から彼の笑顔を見ることは好きだったが、年々真っ直ぐ見ることが難しくなっているように感じた。理由は分からない。彼の笑顔を正面から見てしまうと、妙に照れ臭くなってしまうのだ。
「ビル」
名前を呼ぶ声は聞こえた。しかし応えることができない。ハリーの顔を見ることができなかった。
数秒の間を開けて、呆れたのかハリーが軽い溜息を吐いた。
「ビル、君に挨拶してもらえなくて、僕は寂しかったよ」
呆れたというより、拗ねたような口調だった。どのような表情をしているのか気になって見てみれば、眉を少し寄せて口をやや尖らせた顔はやはり、拗ねているかのようだった。
ビルはやっと、布団を取り去る決心がついた。
「ごめん、ハリー」
床を見詰めて言った。
謝罪の言葉にハリーは、違うよ、とやはり拗ねたような口調で応える。
「謝る必要なんてないんだ。『隠れ穴』に来て、ビルに会えて、僕は嬉しかった。ビルは?」
僕が来ない方が良かったのかな。
そう続けたハリーの口調は、拗ねたときのものとは違った。憂いを帯びた言葉に、ビルは違う、と叫ぶ。
「僕も嬉しかった! 僕も、ハリーに会えて嬉しかった!」
ハリーはにっこりと満足そうに笑んだ。
大きな手をビルに近づけ、燃えるような赤毛の伸びた頭へ乗せて一撫でする。
「ありがとう、ビル」
温かい。
その手の温度に、思わず顔が緩む。
しかしすぐに顔を引き締めて、ハリーの顔を見据えた。
「ハリー、僕が逃げたこと、どうして怒らないの?」
「どうして? どうして僕が怒るの?」
「僕は……ハリーを見て逃げたんだよ?」
ロンに対して同じことをしたならば、間違いなく怒られていたはずだ。もしくは年甲斐もなく不貞腐れていた。だが、ハリーはそのどちらもしなかった。
「きっと、何か理由があったんだろうと思って。ビルはいつも、一番に僕のところへ来てくれるから」
寂しかったけど怒ることじゃないよ、とビルの頭を撫でた。
撫でられながら、ビルは口を開く。
「今年から、チャーリーがホグワーツに入学するんだ」
「そうだね。僕も、ロンと一緒にお祝いを持って来たよ」
チャーリーの入学祝い。
その言葉に、ビルの身体が強張った。ビルの様子が変わったことに気付き、ハリーはビルの顔を覗き込む。
我慢の限界が来た。
「ビル?」
「……チャーリーは、ずるい」
口を突いて出てしまった。
たがが外れてしまったせいか、堪えていた言葉たちが次々と溢れ出る。
「チャーリーだけじゃない、パーシーもフレッドもジョージも、皆ずるい! 何より一番ずるいのはロンだ!」
「ロン?」
「だって、だってロンは、ずっとハリーと一緒にいるんだもの!」
水気を帯びて歪んだ視界に、きょとんとした表情のハリーの顔が映った。
ロンはずるい。ロンが羨ましい。
彼は入学したそのときからハリーの隣にいて、そしてハリーと共に戦った。兄弟の中で、ハリーと最も長い時間を過ごしているのがロンだ。最も年齢の低いビルには、どうあがいても埋められず、追いつくこともできないほどのものがある。
「僕は、どうやっても、ロンにはなれないんだ……」
液体が両眼からぼろぼろと落ちる。
それを拭うこともせず、ひたすらにハリーを見詰めた。
ハリーの両手がすっと伸びてくる。わずかに身体を引いたが、ハリーの手はそれに構うことなくビルの頬を捉えた。
「ビルはロンじゃない」
ハリーの口から出た言葉に、深い絶望が落ちる。
分かっていたはずなのに、覚悟していたはずなのに、ビルの心は抉られるような痛みを感じた。
再び布団の中に身を隠そうと藻掻く。だが、ハリーの手がそれを固く拒んだ。ビルの顔を包んだ手は、自分の目から逃げることを許さない。
「僕が好きなのは、ロンじゃなくてビルなんだから。ビルがロンになったら、すごく困るよ」
ハリーの親指が涙をすくった。
ビルがぱちくりを目を開閉するため、彼の指は何度も往復するはめになった。
理解の及んでいないビルに、ハリーは眉尻を下げる。
「あのね、僕は確かにロンとは長い付き合いだし、よく一緒にいるけど、何も四六時中、ずーっと一緒にいるってわけじゃないんだよ? 卒業してからは会う機会も減ったしね。付き合いが長いから好きになるっていうわけでもないし。いや、ロンのことは好きだけど、それはまた別というか」
言いながら、ハリーは視線を泳がせ始めた。次第に彼の頬が赤く染まっていく。
対して、ビルの心は平静を取り戻し始めていた。
ああ、そうか、と心の端が理解を示す。
「とにかく! ビルはビル、ロンはロン! 分かった!?」
「痛い!」
無理やりに締めくくったハリーがぺちんとビルの頬を叩いた。
彼の手が離れた頬を擦りながら、ビルは微笑む。そんなビルの表情に、ハリーは訝しげに睨みつけてきた。
「にやにやしてるけど、本当に分かったの?」
「うん、分かったよ。だから、」
「え?」
言いながら、今度はビルがハリーの両頬を捕まえた。自身の顔へ近づけ、その頬に唇を寄せる。
ちゅ、と小さな音を響かせた。
自分はロンではない。フレッドでもジョージでも、パーシーでもチャーリーでもない。
ビルはビルだ。
それでも、今のままでは彼らに張り合えない。
何より、今の自分のままでは、ハリーに似合わない。
「待っててね」
せめて、彼の隣に立つその資格だけは自力で勝ち取ってやる。
決意を込めて、にやりと笑った。
ベッドから舞い降りて階下へ走る。去り際に見たハリーの顔はウィーズリー家の髪色に負けぬほどに赤くなっていたが、自分はそれ以上に赤くなっている自信があった。
end.