全ては香りが見せた幻なんだ - 1/2

慌ただしく「隠れ穴」へ招かれて間もなく、ハリーはあることに気がついた。

ロンがにおう。

汗くさいだとか泥くさいだとか、そういった類の匂いではない。もちろん、ロンの口が臭い訳でもない。不潔による匂いではないのだが隣にいるとどうも顔をしかめてしまう。アロマオイル製造工場の中でシャワーも浴びずに一週間過ごしていたかのような匂いだ。

彼の名誉のために鼻をつままずにはいたが、顔は嘘を吐けなかった。

おばさんの指示に従ってリビングを片づけている間、ロンが不思議そうな表情で訊ねてきた。

「ハリー、どうしたの? さっきからずっと、トロールの服に正面から突っ込んだみたいな顔をしているよ」

ロンは、ハリーがどうしてそんな顔をしているのか皆目見当もつかないらしく、心底不思議そうな表情でハリーを見詰めた。

ここで誤魔化すのは簡単だが、友人として言わねばならないこともある。

ハリーは逡巡した後、やっと口を開いた。

「ロン、君、芳香剤でも一気飲みでもしたの?」

訊ねてしまうと堪え切れなくなってしまい、ハリーはとうとう鼻をつまんでしまった。
え、と小さな声を漏らしたロンは、確かめるように自身の腕を嗅いだ。

「もしかして僕、つけ過ぎてた?」

消え入りそうな音量で呟いたロンは、一瞬で顔を真っ赤に染めた。もう少し離れて見たら髪と顔の境目がわからなくなっていただろう。

「実は、ちょっと、その……香水をつけてみたんだ」

飲んだわけじゃないよ、とロンは付け加えた。

「どのくらいつけたらいいのかわからなかったから、その、パッパッ、とね」

言いながら、彼は瓶を腕に振りかける仕草をした。ハリーには、パッパッというよりはバシャバシャといった方が近いように見えた。腕にかけた後、同じ動作を腹と足首にも繰り返している。

ハリーはまだ、人生で一度も香水というものをつけたことがない。香水どころか、コロンだって触れたこともなかった。マグルの香水売り場はもちろん、魔法界の売り場にも行ったことがない。立ち寄ろうと思ったこともなかった。

思い返してみたら、今年の夏、ダドリーが父親の香水を勝手に使っているところを見た気がする。見てはいけないものを見てしまった。ダドリーに気づかれる前にその場を去ったので、たぶん向こうはハリーが覗き見したことは知らずにいるだろう。その日、ダドリーに擦れ違う度におじさん臭いと思ったが、何とかその言葉は飲み込んだ。

ダドリーですら香水をつけていたのだ。ロンが興味を持ったとしてもおかしくない。

「最初はパーシーから借りようと思ったんだ。でもほら、パーシーってさ、今、あれだろ? 香水は大鍋に入れるには適さないとか何とか言ってさ。さすがに僕も、大鍋いっぱいの香水なんていきなり使いたくないよ。ビルのを借りられたらいいんだけど、ちょっと聞きづらくて」

ビルとは今年初めて会ったが、握手したときにいい香りがしたのを覚えている。シトラス系の、爽やかな匂いだった。

あのビルに聞けば間違いはなさそうだ。だが、何となく彼には聞きづらいという気持ちもわかる。きっとこちらのことは馬鹿にしないのだろうけれど、それが逆に恥ずかしい。

「じゃあ、誰のを借りたんだい?」

ロンの口ぶりからすると、自分で買ったのではないようだ。さすがに、妹のジニーのものをこっそり使った、なんてことはないだろう。ロンのまとっている匂いが女性ものなのか男性ものなのか、あるいはそのどちらでも使えるものなのかはハリーに判断できなかったが、彼の兄としての矜持を信じることにした。

そうなると、ウィーズリー家の次男、チャーリーから借りたのだろうか。

ハリーは、ビルのときと同じようにチャーリーの匂いを思い出そうとしたが、何も出てこなかった。

記憶を掘り起こしていると、ロンは答えを教えてくれた。

「フレッドとジョージのやつを借りたんだ」
「フレッドとジョージ?」

予想外の名前に、オウム返しに訊ねてしまった。

ウィーズリー家の四男と五男の双子は、ロンの兄弟の中でも特によく会う人たちだ。今回「隠れ穴」に来たときも、あの二人はロンとおじさんと一緒に迎えに来てくれた。

ダーズリーの家で二人と擦れ違ったときの匂いを思い出す。甘い匂いがした。花の甘さではない。お菓子の甘さだった。それも、バターがたっぷり入った手作りのお菓子の甘さではなくて、添加物を惜しげもなく投入した人工的なお菓子の甘さだ。しかし、香水のような匂いとはまた違った。彼らが作っているという、ウィーズリー・ウィザード・ウィーズの新商品絡みで染みついた匂いであるように思えた。

「あの二人って、香水なんてつけるの?」
「つけてるよ。昨年くらいからかな。すごくお洒落な匂いのする瓶を振りかけるところを見るようになったんだ」
「ふうん」

それもやはり、彼らの悪戯グッズの一つなのではないか。そんな疑問を拭えない。
ロンから漂う匂いは香水のそれのようなので、双子から借りたものを使っているというのなら嘘ではないのだろう。だが、にわかには信じ難い話だった。

「じゃあ、見てみる?」

ロンは親指を立てて自室のドアを差した。

「あの二人、ビルとチャーリーに部屋を明け渡したときに、自分たちの道具を山ほど僕の部屋に運び込んできたんだ。その中に、いつも香水を入れてるバッグもあった。今朝もそこから借りたんだけど、ハリーも見たらわかると思うよ」

確かに、それができたら納得できるかもしれない。
ハリーはこくんと頷いた。

ロンはハリーの了承の意を認めると、窓から外を覗いた。ハリーもそれに倣って外を見てみる。フレッドとジョージは、ビルとチャーリーと共に庭で何やら騒いでいた。こちらに来る気配はなさそうだ。

「ハリー、先に入って」

ドアを開け、外への警戒を続けながらロンが促した。たかが香水、と思わないこともないが、ロンはお洒落に興味があることを、あの二人にはあまり知られなくないのかもしれない。その気持ちはビルに対するものとは別のところからきているのだろうが、相手が双子だからこそ、そんな感情もわかるような気がした。

「部屋の奥にあるバッグだ。ジョージのベッドの上の。灰色のバッグを開けてみて」

指示に従い、ベッドの上に載ったバッグを探した。二人の使っているベッドには、バッグ以外にもあらゆる物──これはきっと『だまし杖』だ。このクッキーは何だろう、普通のクッキーではない──が散乱していたので、見つけるのに苦労した。

ポーチほどの小さなバッグを開けてみる。中には大小様々なサイズの瓶がぎっしりと詰まっていた。アンティークなものからシンプルなものまで、デザインも豊富だ。

フレッドとジョージの所有している液体の中身がどれも香水だった、なんてことはないだろう。このうちのほとんどが効能もわからない、怪しい魔法薬だ。下手に手を出したらどんな目に遭うかわかったものではない。

「ロン、この中からよく香水を見つけられたね」

とてもではないが、ハリーは手を出す気にはなれなかった。ここから香水を探し出そうとしたロンの勇気は尊敬に値する。

ドアを閉めたロンが、自慢げに胸を張った。

「簡単だよ。一つだけ、色のない液体が入っている瓶があるだろ? それが香水だよ」
「一つだけって、どれ?」
「あるだろう? ほらそれ──って、あれ?」

再び瓶を見下ろす。大きさもデザインも多種多様に揃っているのだが、共通していることもあった。中身がどれも無色透明なのだ。

ハリーの後ろから覗き込んだロンは、慌てて瓶を手に取った。

「あいつら、中身を変えたな!」

ロンはバッグから全ての瓶を取り出したが、色のついている液体は一つもなかった。匂いを頼りに探そうにも、特別製の瓶なのか、どれほど鼻を近づけても中に匂いを嗅ぎ取ることができない。

「そうだ、香水が入ってた瓶と同じ形の瓶を探せばいいんだ」

閃いた、とばかりに顔を輝かせて、ロンは瓶の形を確認し始めた。
ロンのそんな様子にも、ハリーは嫌な予感がしてならなかった。

「やめた方がいいんじゃないかな」
「大丈夫だよ、今朝使ったばかりだからちゃんと覚えてる」
「いや、そうじゃなくて」

瓶の中身を変えたのはきっと、ロンがこっそり香水を使っていることに気づいたからだ。あの二人が入れ替えた液体がただの水であるはずがない。もちろん、全て香水に替えておくような親切はしないだろう。良くない結果が口を開けて待っているようだった。

「これだ!」

ハリーのやんわりとした静止も虚しく、ロンは一本の瓶を選んだ。丸いフォルムの瓶で、蓋に金細工が施されている。

流れるような動作で蓋を開けたロンは、すん、と匂いを嗅いだ。

「──う」
「ロン!」

手から瓶が滑り落ちると、ロンは床にうずくまった。ハリーは駆け寄り、ロンの身体を助け起こすために肩を掴んだ。だがすぐに片手を放し、袖口を鼻に持っていく。ロンの落とした瓶の中身が床に流れ出していた。何百本ものバラを煮詰めてドロドロにしたような匂いだ。つい先ほどまでのロンが身体にまとっていた匂いなんて比較にならない。目が眩むほどの香りがハリーの脳を襲った。

この香りの中心地にいながら、ロンは鼻を抑えることなく、うー、と呻いている。

「ロン、大丈夫かい?」

空いた手でロンの顔を持ち上げた。しばらく視線をさまよわせていたが、ハリーに焦点を合わせると、にっこりと微笑んだ。

「ハリー、君って、何だか、すっごく……その、いい匂いがするね」
「そりゃするだろうね。バラの香りをこれだけ浴びたら」

眉間に皺を寄せて応えた。香りの爆撃を食らっておきながら「いい匂い」などと吞気に言ってしまえるロンに呆れた。

一番の被害を受けているはずの当人は、ハリーの言葉に小首を傾げた。

「バラ? そうじゃなくて、君からいい匂いがする。僕、知らなかったな。君からこんなにいい匂いがするなんて」
「ロン? どうしたの? 変だよ、君」

ロンは自身の顔を掴んでいたハリーの手を取り、その手首に鼻を近づけて嗅ぎ始めた。夢を見るような目つきで忙しなく鼻を擦りつけてくる。

「ロ、ロン⁉」

ハリーの混乱に答えを与えるように、面白がるような声が背後から聞こえた。

「ロンはそれを選んだか。てっきり前と同じやつを手に取ると思ったのに」
「残念、俺の勝ちだな。彼は形を瓶の正確に記憶してはいなかったようだ」

よく似た二つの声の持ち主は、振り返らなくても誰のものなのかわかる。

「フレッド、ジョージ! これはどういうことなの⁉」

叫びながらドアに視線を向けると、そこでは予想通りの二人が同時に肩を竦めていた。

「ちょっと前に、ロンが俺たちのものを勝手に使ってるって気づいてね。あれだけ派手に中身を減らしてりゃ、気づくなって方が無理な話なんだが」

匂いも強烈だったし、とフレッドは付け加えた。それに同調するように、ジョージがうんうんと頷く。

「ロンのお気に入りは商品の香料にするために作ったサンプルだったんだが、香水と間違えたらしいな。折角なんで、俺たちはそれをちょっと利用させてもらったってわけだ」
「瓶の中身を君たちの新商品に替えたのか」

香料のサンプルを勝手に使ったロンは、商品のモニターにされてしまったらしい。想定しうる最も悪い結果を引き当ててしまった。

「まぁな」

二人は同時に肯定した。

「安心してよ、どれも俺たちがテスト済みのやつだから。安全は保証する」

さすがの彼らも、自身の弟をいきなり実験台にするような真似はしなかったらしい。
ジョージの言葉に、ハリーは安堵の息を吐いた。だからといって、ハリーの手に貼りついたロンは離れてくれはしないのだが。

フレッドとジョージは袖で鼻を覆いながら中に入ってきた。フレッドは、最早床に染みとなってしまった液体を確認する。

「ただ中身を入れ替えただけじゃあ面白くないから、全部替えてみたんだが」
「まさかこれを選ぶとはなぁ。運が良いのか悪いのかわからない奴だよなぁ」

ジョージがロンの顔を覗き込んだ。ロンは鼻先をびったりとハリーの腕につけているのでその顔色が見えたのかどうかは怪しかった。

「これ、どんな薬だったの?」

ジョージは空き瓶を取ってくるくると回すと、あーやっぱり、と納得したように頷いた。

「近くにいる奴がとびっきり魅力的に見えちまうやつだ」
「み、魅力的って」
「はーっ、ハリー、いい匂い……」

ロンの鼻が次第に上へずれてきた。手首から腕へ、更に上がって首元を目指してくる。

「ロン!」

これ以上は不味い。友達として越えてはならない壁を越えてしまいそうだ。

ハリーはやや乱暴にロンの顔を抑えた。だが、反発するようにロンの力は余計に強さを増してしまった。ぐいぐいとハリーの首へ向かってくる。

「おっとさすがに」
「こりゃ駄目だな」

フレッドがハリーの前に立ち、ジョージがロンを引き剥がした。二人が間に入ったことにより、ロンはやっとハリーから距離を取ってくれた。

「おい、ロン。俺が誰かわかるか?」

ジョージはロンの目の前で指を鳴らした。ロンは二、三度瞬きをしてから眼前の兄の顔を視界に捉えたらしい。「ジョージだぁ」とへらりと笑った。

「ジョージ、ずっと一緒に暮らしてたのに、初めて気づいた。ジョージもいい匂いがするんだね」
「は、ま、待て、ロン!」

いつになく切羽詰まった声がジョージの喉から漏れた。ロンが次の獲物に手を伸ばす。
フレッドが、こりゃあ改良の余地ありだな、と呟いたのをハリーは耳で拾った。

「俺たちが使ったときはあそこまで酷くはならなかったんだが、個人差か? それとも量が多過ぎたかな」

フレッドが笑みを浮かべながら続けた。

普段からよく聞いているはずの声のはずなのに、音が一つ鼓膜を打つ度に、一緒になって心臓まで震えた。

目の前に広がる背中に、無性に抱きついてしまいたくなる衝動に駆られる。

「フレッド! 今はこっちを助けてくれ!」

ジョージの声は悲鳴と化していた。ロンは、今度はジョージの首筋を狙っている。
はいはい、とフレッドがロンの身体を抱えて、二人を離した。

おかしい。

自分も、ロンほどではないが、あの液体に匂いをしっかりと嗅いでしまった。ハリーもロンと同じ様な影響を受けてしまっているに違いない。そのせいでやけにフレッドの姿が輝いて見えるのだ。朝日を糸にして織り込んだマントを着たような光を帯びている。ジョージやロンもすぐそばにいるのに、フレッドだけがきらきらとし日光を反射していた。

視界を正常に戻そうと首を左右に振ったが、目眩がするだけで景色はほとんど変わらなかった。いや、更に悪化している。こちらの様子に気づいて振り返ったフレッドは、更に光度を上げていた。

「大丈夫か、ハリー。君も近くにいたもんな。外に出るか」

フレッドは窓を明け、部屋の空気を入れ替えた。そのままハリーに歩み寄ってくる。ハリーは袖で鼻を覆ったまま、後ずさりしてフレッドから距離を取った。

「ハリー?」
「だいじょうぶ、だから。僕、ちょっと行ってくる!」

言い捨てるように走って部屋を後にした。戸惑いの表情を浮かべたフレッドと、再び捕まえたジョージにキスを迫るロンが見えたが、構っている余裕はなかった。