昨年の学期の終わり――ハリーから賞金を受け取ったとき、フレッドは自分の目に異変を感じた。
ハリーがたまらなく可愛く見える。
ハリー・ポッターは出会ったときから可愛かった。くしゃくしゃな黒髪も、澄んだ緑の目も、フレッドとジョージのからかいに笑ったり怒ったりする表情も全部可愛かった。
4年も前から知っているはずなのに、何故だかあのとき初めて知ったような気がした。
激しく動く心臓の送る血液が、自分の顔に集まっていくのがわかった。
ハリーのおかげで、いまはもう開店資金のことを心配する必要はない。
夏休み中は、ジョージと共に店の物件を調べたり商品を量産したりと忙しく過ごしていた。途中、拠点は「隠れ穴」からグリンモールドプレイスへと変わったが、やることは変わらない。あとは本格的に動き出すことだけを考えたらいいだけだ。それなのに集中しきれずにいる。
少しでも時間があると、ふわりとハリーの顔が浮かんでしまうのだ。
何の脈絡もなく、ふわりと――いまも浮かんでしまった。クィディッチの試合で、真っ直ぐにスニッチだけを見据えるハリーの姿が。
振り払うように軽く頭を振る。
「なぁ、思うに、俺たちはもう、ホグワーツに戻らなくてもいいんじゃないか?」
「伸び耳」をいじりながらジョージが言った。こちらを見てはいなかったようで、フレッドの妙な動きについて何も言ってこない。
フレッドもまた、何事もなかったように話を続けた。
「たしかに、ホグワーツで学ぶべきことは全て学んだ。けど、中退なんてしたらママが怒り狂うだろうよ」
烈火の如く怒り出す母を想像したのか、ジョージは笑い声を漏らして顔を上げた。
「俺たち、ママの良い息子だもんな。ホグワーツをきちんと卒業するところを見せたらきっと大喜びだぜ」
兄3人が通った道である、首席やら監督生やらといったものから最も縁遠いところに自分たちがいることを思い出しながらフレッドは肩を竦めた。
フレッドたちのOWL試験の成績が芳しくなかったことへの怒りはそろそろ冷めていてくれたらいいのだが。
「ホグワーツに戻れば開店の宣伝もできるしな。それに――」
「それに?」
訊ね返してくるジョージには答えず、窓の外を見る。傷だらけの身体で、目を細めて遠くを見つめるハリーの姿が浮かんだ。
フレッドが強くかぶりを振ってジョージに向き直る。
今度はジョージもフレッドの動きをしっかり見ていた。だが目を瞬かせるだけで何も言わなかった。
フレッドは「それに、新しく作ったこいつも宣伝できる」と持っていた商品を掲げて見せる。
ジョージは「だな」と首肯するだけでそれ以上は訊いてこない。疑問に思っているだろうに、深く問わずにいてくれる相棒の有り難さが身に沁みる。
現在、フレッドとジョージは、グリンモールドプレイスの一室を拠点としている。不死鳥の騎士団が本部としている場所だ。
あのシリウス・ブラックが無実であったことや、シリウス・ブラックが自分たちが尊敬してやまない「悪戯仕掛け人」の一人であったことなど、驚きの事実が立て続けに明かされた。
しかもこのうちのいくつかの事実を、末弟であるロンとその友人たちは既に知っていたらしい。
こんなにも面白いことを今まで知らずにいた自分たちが嘆かわしい。その雪辱を果たすべく――そんな雪辱などがなくても同じことをしただろうが――不死鳥の騎士団がこそこそと隠れながら行っていることを把握しようと「伸び耳」を調整している。
この頃は、目敏い母から逃れながら開店の準備を進めつつ、騎士団の様子を探る日々を送っていた。
フレッドとジョージの夏は充実している。ハリーのことを考える暇もないくらい忙しいはずなのに、気づけばハリーはいま何をしているだろうと考えてしまっている。このままでは何もなせないうちに夏休暇が終わってしまう。
そろそろどうにかするべきか、と悩み始めた頃に、ハリーがグリンモールドプレイスにやってきた。
久しぶりに会ったハリーが記憶よりもずっと可愛く見えてしまって非常に困った。
大抵、記憶の中の姿の方が実物よりも良く見えるものだと思う。そのはずなのにいまは実物の方が綺麗に見える。
ハリーは前よりもさらに身長が伸びた。クィディッチでウッドにしごかれている上、毎年のように大きなトラブルに巻き込まれている――飛び込んでいるのかもしれない――ためか、体つきもがっしりとしてきた。
出会ったばかりのころの、華奢で幼げな顔をした少年はもういない。
どう形容しても「可愛い」という言葉が似合わない容姿だ。「可愛い」よりは「格好いい」と言った方が正しい。
理性ではそう思っているのに、心は彼を「可愛い」と訴えて憚らなかった。
はっきりと確信したわけではないが、フレッドは自分がもう駄目なところまできているように思えてしまった。
ジョージの様子はいつもと変わらない。おかしいのはフレッドだけだ。
距離を取った方がいいのかもしれないとも思った。だがそれも難しい。グリンモールドプレイスは広い屋敷だが、ホグワーツよりも狭い。避けようとしても簡単に鉢合わせた。
避けたつもりで寄った先の部屋に本人がいる、なんてことも珍しくない――いまがまさにその状態だ。
「ハリー……」
名前が口からこぼれてしまった。ハリーがこちらに振り向き、「やぁ、フレッド」と挨拶してくる。
ハリーは一人で、部屋の中でカウチに腰掛け、ぼんやりと新聞を見ていた。
今日の日刊予言者新聞はまだ読んでいないが、ハリーにとって良くない内容が書かれているだろうことはわかる。
フレッドの眉がわずかばかりに寄ってしまう。幸いなことに、ハリーはフレッドの表情の変化には気づかなかったようだ。
フレッドは素早く意識を切り替え、努めて明るい声を出した。
「こんなところで何をしてるんだい?」
「ちょっとね」
言いながら、ハリーは持っていた新聞を閉じて傍らに置いた。
新聞での無責任な言葉も、魔法省での裁判も、ハリーの心を消耗させていく。
ハリーはいつも、とても大きなものと戦っている。フレッドがどれほどハリーを助けたいと思っても、ハリーはフレッドに助けを求めない。彼と共に戦うのは大抵、フレッドやジョージではなく、末弟たちだ。
寂しさを感じるものの、ハリーから伸ばされてもいない手を無理に引くことはできない。
呼ばれたらいつでも飛んで行くつもりでいるのだが、ハリーが望まない以上、伸ばす手の距離は考えてしまう。
ただ、フレッドにはハリーの助けになる心づもりがすでにできていることだけはハリーに知っていてほしかった。
「ハリー」
フレッドはハリーの頬に手を伸ばした。温かい室内にずっといるはずなのに、触れた頬がひんやりと冷たい。
ハリーの緑の目がフレッドを見上げた。
ぱちくりと瞬きをして、フレッドの行動を不思議そうに見ている。薄い唇が視界に入った。
もしも。
もしも今、ハリーに口づけたら、ハリーはどんな反応をするのだろう。
驚くだろうか。それともフレッドを張り倒すだろうか。
奇妙な好奇心が湧き上がってくる。
どんな反応をするのかはわからない。しかしハリーが新聞だのなんだのと、取るに足らない世情に心を蝕まれることはなくなるように思えた。
ゆっくりとハリーへ顔を近づけていく。だが、唇を重ねることはなかった。
「フレッド! ハリーを見なかったか?」
一緒に探しに行こうぜ、と呼びかけるジョージの声が次第に尻すぼみになっていく。
廊下を歩いている途中、たまたま見つけた部屋のドアが開きっぱなしになっていたので覗いてみたのだろう。数分前にフレッドも全く同じ行動をした。ただし、ジョージが見つけたのはハリーではなくフレッドの姿だけだったようだが。
部屋を覗き込んだジョージはハリーの姿も見つけると、幾度か瞬きを繰り返した。次にフレッドとハリーを交互に見て、ハリーの頬に添えられたフレッドの手を見て、何か納得したように、にんまりと笑みを深める。
「いやぁ、すまないね。ママが掃除をするからみんなを集めろって言ってたんだけど、こっちは気にしないでくれ。俺たちだけでやっておくからさ」
じゃ、と軽く手を振って去っていく。
一拍の間を置いてハリーが「待って!」と大きな声を出した。
「ジョージ、僕も行く!」
ハリーはフレッドを振り返ることなく、廊下の向こうへと消えてしまった。ハリーの顔が赤く染まっていたのをフレッドは見逃さなかった。
一人残されたフレッドは、自身の顔を両手で覆った。全身から力が抜けてしまう。しゃがみ込むと、喉から「あー……」と情けない声が出た。
何をしているのだろう。
まるで、後先考えずに身体だけで動いてしまう、思春期の子どものようではないか。
何故気づかなかったのだろう。
ハリーのそばで熱さを宿す胸も、ハリーだけを特に意識してしまう目も、全てはたった一つの原因があった。
ハリーが好きだ。
それも、恋という甘酸っぱい名前がつく類の感情を抱いている。
今の今まで自覚できずにいた事実は、フレッドに恐ろしいほどの羞恥を与えた。