絶望、というほかなかった。
ホグワーツから帰る準備をするときはいつもわくわくと胸が躍っていた。「隠れ穴」では母がご馳走を作って待ってくれているし、父の倉庫に新しく入荷されているだろうマグルの道具を見るのも楽しみだった。クリスマスやイースターなら、家を離れて久しい兄たちが帰ってくることもある。二人に会えるとわかっているときは楽しみも倍増だ。
だからこそ、こんなにも沈み込んだ気持ちで鞄に荷物を詰め込んだのは初めてだった。
帰宅しても母はご馳走を作ってはいないし、父の倉庫へ行くような気分にもなれない。兄たちは帰ってくるかもしれないが、和気藹々と騒ぐことはない。
ちら、と隣のベッドで片付けるジョージを見遣ったが、目も合わなかった。影を背負った肩で、入れるというより落とすといった方が正しい仕草でネクタイを詰めている。他人が見たらきっと、フレッドもジョージと同じような背中をしていると言うのだろう。フレッドとジョージに気遣ったルームメイトたちはみんな談話室に行ってしまったので、この場に自分たちの姿を見る者はいないが。
妹が――ジニーが危ない。
たった一つの事実が、フレッドとジョージを暗く沈み込ませた。
今年度入学したばかりの末の妹が、「秘密の部屋」の怪物に連れ去られた。寮監のマクゴナガルから報せを受けてからかなりの時間が経つのに、未だに行方がわからない。安否も定かでない。
それなのに、フレッドたちは安全なところへ行くための準備を進めている。
明日、フレッドとジョージを含めたホグワーツの全生徒は学校を去り、自宅へと帰る。ダンブルドアもホグワーツを離れてしまったいま、正体不明の怪物に対抗する術はなかった。
こんなことをしている場合ではない。
「クソッ!」
フレッドは鞄の蓋を叩きつけて締めた。激しい音にジョージが手を止めて振り向いた気配がする。
「ジニーが危険だっていうのに、どうして俺たちは帰る準備なんかしてるんだ!」
らしくない。
自分たちは、マクゴナガルだろうが校則だろうが何だろうが、まともに人の指示や命令に従って大人しく帰るような性質ではなかったはずだ。
「こんなことをしている場合じゃない」
熱さが頭を支配している感覚がする。しかし芯の部分は妙に冷えている心地がした。
右手で懐を探り、杖を身に着けていることを確認する。寮室のドアに向き直った。
「どこに行くんだよ」
ドアに歩みを進める前に肩を掴まれた。この場で、フレッドを止めることができる人間は一人だけだ。
「離せ。止めるなよ」
振り返ることなく応じた。
お前だってジニーが心配なはずだ。
言外にそう伝えると、肩を掴んでいた力は弱まった。手は肩から離れると、今度は軽い力で叩いてくる。
「早とちりするなよ、相棒。俺も行く。『秘密の部屋』の場所がわからないんだ。探すなら一人より二人の方が良いだろ?」
明るい調子だった。ようやく振り返って視界に入れたジョージは、悪戯するときと同じようにニヤリと笑っていた。だがいつもよりもややぎこちない。
フレッドもまたニヤリと笑みを返した。頬の筋肉が強ばって上手くつり上げられなかったが、笑みの形を作ることには成功した。
心強い相棒を味方につけたことで頭が少し冷えてくる。おかげで大きな問題に気づけた。
「どうやってジニーを探す?」
フレッドの問いに、ジョージは真剣な面持ちで首肯した。
ジニーは「秘密の部屋」に連れ去られた。これは確実だ。だが肝心の「秘密の部屋」の場所がわからないせいで、マクゴナガルは愚かダンブルドアでさえ手を出せずにいる。おまけに、今は怪物も城の何処をうろついているかわからない。寮を出た途端、ジニーを助け出すより先に自分たちが石にされてしまう恐れもあった。
当てもなく城を探し回るのは危険だ。
フレッドとジョージは二人とも、ホグワーツ城のありとあらゆる道に精通している。知っている抜け道の数は管理人のフィルチにも負けない自信がある。いまのホグワーツに、自分たちより城の道を知っている者はいないだろう。自分たちに勝てる者がいるとしたら、過去にここに通っていたと思われる悪戯仕掛け人たちだけだ。
「――あ」
ぽん、と一つの閃きがフレッドの頭に瞬いた。
「そうだ、悪戯仕掛け人だ」
唐突に脈絡のない言葉を発したフレッドを、ジョージは訝しげに見てくる。思考が鈍くなっているジョージの理解を助けるため、決定的な単語をぶつけてやった。
「ジョージ、『忍びの地図』だ。あれがあれば全て解決する!」
瞬間、ジョージの目が見開かれた。
「忍びの地図」は、フレッドとジョージがフィルチの没収品から拝借したものだ。ホグワーツ城の見取り図とありとあらゆる抜け道が記されている。さらには、ホグワーツ城近郊にいる人たちの現在地が表示される。
ジニーが生きていれば彼女の名前が表れるはずだ。もしかしたら怪物の名前も表示されるかもしれない。そうしたら話は簡単だ。怪物を避けながらジニーのいるところを目指せば良い。
とてつもなく大変な問題だったはずなのに、とても単純なことであるように思えてきた。
フレッドは先ほどまで荷物を詰め込んでいた鞄をひっくり返した。靴下にシャツ、クィディッチ用のグローブに自作の悪戯グッズの数々が出てくる。最後になってようやく、古びた羊皮紙が出てきた。「忍びの地図」だ。
羊皮紙と杖を構え、手早く呪文を唱える。
「我、良からぬことを企む者なり」
言ってから、本当に良からぬことだ、と吹き出してしまった。フレッドたちがやろうとしていることをマクゴナガルが知ったら、あの引っ詰め髪を振り乱して怒りを露わにするかもしれない。マクゴナガルのそんな姿は見たこともないが。
白紙だった「忍びの地図」にじわじわとインクが滲んでいく。あっという間にホグワーツ城がかたどられ、中にいくつもの名前が表れた。ほとんどの名前が各寮に集まっている。
フレッドはジョージに「地図」を託した。
「俺が先行する。ジョージはジニーを探しながらついて来てくれ。急ごう」
任せろ、と重く返事をしたジョージは、力強い手つきで「地図」を受け取った。
フレッドは杖を握り直し、寮の出口を目指して進み始めた。いつもならまだ談話室で何人もの生徒が騒いでいる時間だが、今はしんと静まりかえっている。
数人の生徒が談話室内にいたものの、誰も口を開いてはいなかった。暖炉の火を見つめている者やソファに座って俯いている者、友人を前にしているのに話すこともなく黙りこくっているような者ばかりだ。
フレッドとジョージを気遣って部屋を空けてくれたルームメイトたちの姿もある。彼らはフレッドたちの姿を見つけると何か話したそうな素振りをしたが、結局言葉を見つけられずに立ち尽くしていた。
杖を構えて「太った婦人」の方へ行こうとする二人を見た彼らは、フレッドたちが何をしようとしているのか勘づいたのかもしれない。
だがフレッドたちが彼らに止められることはなかった。二人の足を止めたのは、いままさに二人がくぐり抜けようとしていた「太った婦人」から寮内へと入ってきた人物だった。
「お前たち、何処へ行くつもりだ?」
グリフィンドールの監督生の一人、パーシーがフレッドたちを怪訝に見上げてきた。
眼鏡の奥の目は、いつもは自信たっぷりの光を帯びているのに、いまはほの暗く曇っている。
元来より、この兄は二人が校則を破って自由に動くことを良しとしない。二人が寮を出ようとしていることを知ったらどのような理由であったとしても許すことはないだろう。
「そろそろパパとママがこっちに着くころだろ? 二人に会ってこようと思ってね」
咄嗟に口をついて出てきた。なるべく軽い調子を意識し、剣呑さをひた隠しにする。
誤魔化しの文句としての出来は良くなかったが、パーシーはひとまず弟の言い分を信じてくれたらしく、わずかに眉間の皺を深めるだけで、こちらを責め立てることはしなかったようだ。
「父さんと母さんは既に到着した。僕がいま、父さんと母さんのところから戻ってきたところだ。二人に会いたい気持ちはわかるが、僕たち兄弟が寮から出てしまうと怪物に狙われるリスクが高くなる。僕たちも明日の朝、特急に乗って帰るように指示された。今日は大人しく部屋に戻ろう」
パーシーはフレッドとジョージの間を抜けて、男子部屋に続く階段に向かった。だが、フレッドもジョージも後を追わなかった。「太った婦人」に向かって前進している。
「おい、何処に行くつもりなんだ! 部屋に戻れと言っただろう」
振り返ったパーシーは声を荒げた。二人の耳にも届くほどの声量だったが足は止めない。
「待て!」
重ねて投げられたパーシーの声を振り切るように、フレッドとジョージは同時に駆けだした。パーシーもまた二人を追うために駆ける音がする。しかし出口にはフレッドたちの目の前だ。
パーシーは二人より年齢が上だが俊敏さは二人が勝っている。普段から機敏に動くことが多い二人を、パーシーに止められるはずもなかった。あっという間にパーシーとの距離は開き、フレッドが出口に手をかける寸前まで迫った。
「フレッド、ジョージ! 待つんだ。そのまま出るなら減点する!」
二人の動きは同時に止まった。
フレッドは杖を懐にしまい、鷹揚にパーシーへと振り返る。先ほどまで出口に向けて真っ直ぐ進めていた歩みを、今度はパーシーに向けて進めた。
減点、とパーシーの言葉をゆっくりと口の中で繰り返す。
「パーシーはグリフィンドールの監督生だ。俺たちのことだって好きに減点できるさ」
低く、呻くように放たれた声に、パーシーはわずかに後ずさりした。
「たしかに今、俺たちがやろうとしていることは減点ものだ。罰則を受けたっておかしくない。おまけに今年のグリフィンドールは崖っぷちだ。ただでさえ点数が低いんだ。ここで俺たちが減点されたら、去年みたいな奇跡が起きたって寮杯を手に入れることはできないだろうね」
眉間に深い皺を刻んだパーシーのすぐ目の前まで迫る。
「けど――」
フレッドは大きく息を吸うと共に、几帳面に結び上げられたネクタイの締まるパーシーの胸元を捻り上げた。
「妹の命より大事なものじゃないだろ! 俺たちを減点したいなら好きにしたらいい。でもな、パーシー。あんただってジニーの兄貴だろ。ジニーは今、一人なんだ。死ぬかもしれないんだぞ。あんたも兄貴なら俺たちのことは放って置いてくれ!」
パーシーは完全完璧監督生だ。グリフィンドールの寮監であるマクゴナガルを見倣ってのものかどうかは知らないが、自寮をひいきすることはない。弟のロンもまた、パーシーによって容赦なく減点されたことがある。
だが――だからどうだと言うのだ。
ホグワーツは明日で終わる。寮の得点がどれほどの意味を持つ。そんなものとジニーの命のどちらが大事なのかなど、比べるまでもない。
パーシーを捻り上げる力はいつの間にか、かつて幼い頃によくした殴り合いの喧嘩のときのものを優に超えていた。
フレッドは自覚しながらも腕の力を緩める気はなかった。
呼吸もしづらくなっているはずなのに、パーシーは怯むどころかフレッドを睨み上げてきた。
「そうだ、ジニーは僕の妹でもある。でも、お前たちだって僕の弟だ! お前たちを守るためなら減点でも何でもしてやる」
強い光を帯びた目がフレッドを射貫いた。
こんなにも真っ直ぐにパーシーの――ジョージを除いて最も歳の近い兄の目を見たのはどれぐらいぶりだっただろう。
フレッドの手から、力が抜けた。
妹が危険な目に遭っているのに自分たちだけが安全なところで待っているなど御免だ。兄としてそう思っていたのに。
自分たちもまた弟であることを思い出してしまったいま、我武者羅に動かしていた腕と足に再び力を入れることができなくなってしまった。
「どうしろって言うんだよ……」
こぼした言葉が誰に向けたものだったのか、自分でもわからなかった。
「早く部屋に戻れ」
ゆっくりとなされた指示に、今度は反発する気力が湧かなかった。だからと言って素直に部屋へ戻る気にもなれない。
投げやりに後方へ視線を逃がすと、自身の相棒の姿が目に映った。
フレッドと同じようにうなだれて、行き場のない感情を持て余していると思ったのに、ジョージの様子は予想とまるで違った。手元の羊皮紙を限界まで顔に近づけて、食い入るように見ている。
「ジョージ?」
フレッドの呼びかけで、ジョージはようやく顔を上げた。いっぱいに開かれた目はキラキラと輝いている。
「見つけた。ジニーが生きてる!」
「何だって!?」
応えたのはパーシーだった。鋭く返された兄の声に、ジョージはハッとして持っていた羊皮紙――「忍びの地図」だ――を閉じてローブに突っ込んだ。
パーシーはジョージが慌てて隠した怪しげな羊皮紙に興味を示すことなく、ジョージに詰め寄った。
「こんなときに冗談なんていうな。悪ふざけにもほどがある」
「悪ふざけなものか。俺だって冗談をいうべきタイミングは弁えているさ。早く行こう! ジニーは医務室だ」
ジョージはフレッドに向き直って要点だけを伝えてきた。フレッドもまた短く「行こう!」とだけ応えて駆け出す。
ジョージは「忍びの地図」を見ていた。「地図」を見ていたジョージが「見つけた」と言うのなら、ジニーは間違いなくそこにいるのだ。
だがこれは、フレッドとジョージが見つけた、とっておきの宝物だ。監督生であるパーシーに――パーシーの性格なら、たとえ監督生でなかったとしても、この「地図」をフレッドたちの手に握らせたままにはしてくれないだろう――に気づかれるわけにはいかない。
混乱しているパーシーをフレッドとジョージの二人で挟み込み、腕を引いた。なぜ二人がジニーの正確な現在地を知ることができたのかなど考える間も与えずに走り出す。
医務室に着いた途端、力一杯ドアを開け放したため辺りには大きな音が響いた。
マダム・ポンフリーが烈火の如く怒りを露わにしたが、そんなことは気にも留まらなかった。
「ジニー!」
「痛っ!」
フレッドとジョージの声は同時に口から出た。げっそりとやつれた妹の姿を認めると共に、抱えていた兄の身体は床へ放り出してしまった。
母に抱きしめられていた妹の小さな身体を、母ごと抱き締めた。
教授たちの指示を無視して飛び出してきたのが明白な息子達を母が叱りつけたが、声に安堵が滲んでいるのを聞き逃しはしなかった。
よろよろと歩み寄ってきたパーシーをジョージが強引に引き込み、四人で塊になって抱きしめ合った。
ジニーに何があったのか。どうやって生還したのか。
事の顛末を知ったのは、一拍遅れてロンが医務室に入ってきてからだ。
一緒に入ってきたロックハートが、ウィーズリー家が家族で抱きしめ合っている姿を見て、何の含みもない純粋な笑顔で「素敵ですね」と手を叩いてくる姿には面食らってしまったが、ロンから聞かされた話への驚きには勝らなかった。
ジニーを――このホグワーツで救ったのは、またもやハリーとロンだった。
そもそも、ハリーとロンが寮を抜け出していたことに、フレッドもジョージも気づいていなかった。血気盛んな双子が寮を抜け出さないように戦っている間に、末弟が百を超える校則を破っていた事実を知ったパーシーの顔は蒼白を通り越して土気色になっていた。
全てが終わり、急遽開かれていた宴会で見たハリーはボロボロだった。
「またやってくれたな、ハリー」
「うん、まぁね」
からかい調子で小突いてみれば、曖昧な返事がきた。
照れくさそうな、それでいて何か思うところがありそうな顔だった。
ボロボロになるような戦いの中で恐らく、ハリーには何かがあったのだ。
だが、何があったのかをフレッドが訊くことなかった。ハリーが自ら触れまわることもない。
きっとこれからも、ハリー・ポッターはフレッドの知らないところで戦い続けるのだろう。
今後も彼の戦いは、フレッドの知らない内に始まって、フレッドの知らない内に終わってしまうのかもしれない。
それでも――それなら。
「ちょ……なに!?」
ハリーの身体を引き寄せて、思いっきり抱き締めてやった。フレッドの隣に座っていたジョージはすぐさま察し、反対側に移動してハリーを抱き締め始める。「二人してなんなの!?」と真ん中でハリーが喚いていたが、何も聞かなかったことにした。
いつか手の届かないところに行ってしまうかもしれない。確信にも似た予感がしたが目を瞑ってしまおう。いつかは遠くへ行ってしまうのなら、近くにいるときは精一杯触れて、構って、からかって――助けてやろう。
決意にもにた想いを胸にフレッドは、腕の中で騒ぐ小さな英雄を抱き潰した。
end