鼓動が高鳴る、その事実だけは変わらないのに

普段は学生たちで賑わっている談話室は、珍しいことに今は人がいない。近年、とにかく人を集めては自身らの悪戯グッズを披露している双子はおろか、他の生徒たちの姿も見えなかった。

それもそのはずだ。
この時間に、ここに人がいるはずがない。みな、それぞれの部屋で眠りに就いている。まだ真夜中といって差し支えない。ふと目を覚まし、月明かりに誘われるように階下へ足を運んだのはハリーだけだった。

窓から見上げる月はやや欠けている。満ちるには数日足りないらしい。それでも暖炉に火がともっていない談話室を照らすには十分な明るさだった。薄暗いなりにも中の様子を視認するには事足りた。

談話室の端に寄せられた机に目をやる。遊んだままのチェス盤や、開いたままの本が置きっぱなしになっていた。その端に、クラッカーが転がっているのを見つけた。見過ごすには存在感があり過ぎるサイズだ。マグルの店で見るような、手の平ほどの大きさのものとは違う。組み分け帽子ほどの大きさがあった。クラッカーにしては巨大だ。

魔法界の、それもあの双子がいるグリフィンドール寮の談話室で見つけた、規格外のサイズのクラッカーが何の変哲もない普通のものであるはずがない。警戒してしかるべきものなのは確かだ。分かり切っている。

しかしハリーは手に取った。

片手で持つには重量感がある。明らかに怪しいそれを手に取ってしまったのは、クラッカーのそのデザインが見覚えのあるものだったせいだ。

「……ふふ」

ホグワーツに入学して初めて迎えたクリスマスの日、盛大なパーティーが開かれた大広間で登場したそれに酷似していた。当時は、初めて見る不思議なクラッカーと、そこから飛び出す様々なアイテムに目を白黒とさせたものだ。

右手でクラッカーを持ち、左手で紐を持つ。

あのときは、ここからとんでもないものが飛び出た。十中八九、ここからも出てくるだろう。引いてみたい気持ちがむくむくと膨らんでいく。

だが、これが仮にあの双子が作ったのだとしたら、とんでもないものが出てこない可能性の方が低い。

そこまで思い至り、紐を掴んでいた手から力を抜いた。
こんな夜更けに、大騒ぎをしたくはない。

問題のそれを机に置く。代わりに、初めてクラッカーを引いたときのことを思い出した。一人では引かなかった。妙な緊張感が心臓を支配していたせいで、手を上手く動かせなかったのだ。それを、後ろから手助けしてくれた人がいた。

あのときは、確か――、

「引かないのか?」

反射的に後ろへ振り返る。
悪戯げに口角を上げたその人――フレッドが、ハリーのすぐ後ろに立っていた。

にやにやとした笑みを浮かべたその表情は、このクラッカーの作り主を自供しているようだった。それであればなおのこと、ハリーはこれを引くことができない。

ハリーは肩を竦めて笑って応えた。

「引かないよ。何が出てくるか分からないもの」

製作者が双子であれば、引いた瞬間にド派手な花火が飛び出しかねない。

「それは残念」

フレッドは目を伏せ、小首を傾げて笑った。

全く残念には思っていないようなその顔が、余計にこの品の危険性を物語っているようだった。
ハリーは自分の判断の賢さに安堵してから、階段に身体を向けた。じゃあ、とフレッドに告げるつもりで口を開いたが、音は出せなかった。

身体の前に腕が伸びてきた。長い腕が背後も同時に塞いでくる。

「待って」

フレッドの両腕は、ハリーを挟み込むような形で机を突いている。ハリーを物理的に引き留めるためなのだろう。これでは前にも後ろにも動くことができない。目的は理解できる。この体勢が、彼の目的を果たすためにもっとも都合のいいものであることも理解できる。

だが――近い。

フレッドの唇が、ハリーの耳のすぐそばにある。
微かに頬に触れる吐息に、心臓が妙に騒がしく動いた。

なぜ、どうして、何故。

何故こんな体勢になっている。
分からないながらにも、一つだけ気づくことがあった。

引き留めたいのであれば、口で言うだけでも十分だったのではないか。

抗議しようとフレッドに顔を向けたが、またも言葉を紡ぐことは叶わなかった。ハリーが何か(何を言うべきか、具体的な言葉は定まっていなかった)を言うより先に、フレッドが口を開いた。

「また、俺と一緒に引いてみる?」

フレッドの右手がハリーのそれに重なった。自分より幾分大きな手は、わずかに温度が高く感じた。
その手はハリーの手を掴み、クラッカーに触れさせた。残っていた左手も同様に導かれ、紐を掴む。

「懐かしいなぁ。あのときもこうやって、ハリーと一緒に引いたよな」

ハリーの中で鮮明に思い出されたそのときのことを、フレッドもまた思い出していたのか。

あれからハリーの身体は成長しているはずなのに、あのときと同じようにハリーの身体はフレッドの腕の中にすっぽりと収まっていた。それなのに、心臓が激しく鼓動するその理由だけが変わってしまっていた。

あのときはただ、目の前で繰り広げられるだろう光景に胸を高鳴らせていただけだった。しかし、今は違う。この胸の鼓動は、あのときとは違う。

この鼓動は、頬の熱は、一体なんなのだ。
考えがまとまらない。

ハリーの手を包む手に力が籠められる。

「5、」

カウントダウンが始まった。

「4、」

待って。今ここで引いたら、心臓が。

「3、」

熱い。耳が、頬が。顔が、いや、そうじゃなくて。

「2、」

――瞬間、弾けるようにハリーは両手を開いた。合わせて腕を天高く伸ばす。

「待って! いま、ここで引いたら不味いでしょう!」

声を殺し、それでいながら叫ぶようにハリーは訴えた。頭の隅の方で、我ながら器用な発声をしている、と感心してしまった。
同時に、突き飛ばすようにしてフレッドから離れる。

「あと! 距離が! 近い!」

手で口を覆ってから、フレッドに言い捨てた。珍しく呆けた顔をして尻餅をついていたフレッドを尻目に、そのまま階段を駆け上る。途中、階段を下りるジョージと擦れ違ったような気がするが、構わずに勢いよく自身の部屋に走り込んだ。あまりにも大きな音で扉を開けたせいでロンはむくりと起き上がったが、何やら不明瞭な言葉を口にしてすぐに寝入ってしまった。

ハリーは自分のベッドへ飛び込み、布団を被る。

既に夜も遅い。寝なければならない。眠らなければならない時間なのに、心臓には落ち着こうとする意思が見られなかった。脳も未だに、必死に稼働している。

何が起きたのか分からない。
何で。
どうして。
何で。
何故。

「どうして……っ!?」

一年生のときと変わらない状況だったはずなのに、自分の心の有様が全く違っていた。何かが違った。何が違う。
ハリーは何も理解することができないまま、どっどっ、と五月蠅い心臓と共に一夜を過ごした。

* * *

喉が渇いて目を覚ました。何気なく見た相棒のベッドは空となっている。恐らく、フレッドもまた喉が渇いたか何かで起きたのだろう。

そういえば、とジョージは天井を見上げた。

談話室にWWW商品を置き忘れていたような気がする。今日は普段よりも多く商品を披露していたため、いくつか片付け損ねてしまったかもしれない。残した商品を誰かがうっかり触れてしまったら不味い。

階下を目指して自室の扉を開けると、それとほぼ同時に声が聞こえた。ハリーの声だ。就寝中の寮生を慮ってか、控えめな音量だった。言っている内容を聞き取ることができない。

何を言っているのだろう。
耳を澄ませながら階段を下り始めると、ハリーがこちらに向かってきた。電光石火の速さで駆け上がってくる。

「おっと」

擦れ違いざまにぶつかりかけたが、ハリーは気付いていない様子だった。片手で顔半分を覆ったハリーの目は、真っ直ぐに彼自身の部屋を見ていた。勢いよく開けられた彼の部屋の扉が閉められるところを見守った後、笑みと共に小さく息を吐いた。そして、はたと気づく。

暗がりではあったが、窓から差し込む月明かりで照らされたハリーの顔は――。

はて。
小首を傾げながらも、当初の目的を果たすために再び階段を下り始めた。

談話室に着くとジョージは、目の前に広がっていた光景に吹き出してしまった。

「あれ? そんなところで座り込んで何してるんだよ」

自身によく似た容姿の相棒は、膝を立てて座り込んでいた。おまけに、立てた膝の間に顔を埋め、それを隠すように腕を組んでいる。

眼前のフレッドの様子と先ほどのハリーの様子。これらを合わせて考えてみると、なるほど。何が起きたのか、大体の想像をすることができる。

「やらかしちゃった?」

端的な質問の意味は通じたようで、無言のまま相棒はこくりと頷いた。

「ま、元気出せよ」

慰めるように頭に手を置くと、フレッドは溜めていたものを一気に吐き出すように、「あああぁあ」と声を発した。

腕を膝から解放して床に突き、顔は天井へ向ける。存外に明るい笑みを浮かべていたフレッドの表情に、ジョージは安堵の息を吐いた。

「こんなつもりじゃなかったんだけどなぁ。ハリーと過ごせる時間も残り少ないから、大人しくしてようって決めたってのに」

明日からはもう近づけないかもな。
わずかに悲哀を滲ませた目を伏せ、フレッドは靴の先に視線を遣った。

「――いや、それはまだ分からないんじゃないか?」

つい先ほどのハリーの顔を思い出しながら、ジョージは口角を上げる。
気のせいでなければ、あのとき見たハリーの顔は朱に染まっていた。そうでなかったとしても、ハリーのあの動揺を見ていれば、察するものはある。

「何か知ってるのか?」

跳ねるようにフレッドがジョージを見上げた。しかし、ジョージは肩を竦め、さあね、とだけ答えて机に向き直る。忘れ物のクラッカーを手に取り、フレッドに背を向けた。

脈がないとは言い切れないみたいだぜ、などと言えるほど、自身の心はまだ割り切ることができていない。そのことを、ジョージはよく知っていた。

階段を上り、道中にある窓から月を見上げる。
願いを月に託すべきかと逡巡したが、結局、溜息だけを残して部屋に戻った。

 

end.

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