【第2話】不透明なインクと

 ジニーとロン、ハーマイオニーを集めた部屋で、母は張り切って腕まくりをしていた。

 遅れて部屋に入ってきたハリーを見つけると、ぱっと表情を明るくさせる。

「ハリー! これからこのお屋敷の掃除をするの。手伝ってくれるかしら?」

 ハリーが現在置かれている状況を、母は人一倍嘆いているし、怒っている。母の声は普段より明るい。手を動かしていれば嫌なことは考えずに済むだろう、との思いから大掃除にハリーも巻き込んだのだ。

 その想いを察してからか、ハリーはにこりと笑って頷いた。続いて、定位置であるロンとハーマイオニーの間へと移動する。

 ハリーの移動をあたたかな笑みで見届けた母はジョージへ向き直ると、きょろきょろとジョージの周囲を見渡した。

「あら? フレッドは? いなかったの?」

「いたよ。すぐに来るよ、たぶん」

 フレッドの考えていることがはっきりとわかるわけではないが、もう少し落ち着いたら「姿現し」でもして、ぽんと表れるだろう。

 母も同じ考えに至ったのか、そう、とだけ言って深くは追求しなかった。

「では、掃除する部屋の割り当てをしましょう。何処から始めればいいかしらね。何しろこのお屋敷はとっても広いから……」

 うーん、と唸る母を見て、はっとジョージは大切なことを思い出した。

 もう一度、掃除をするメンバーを見渡して確認し、屋敷の間取りを思い起こす。

 よしとばかりに頷いて、ジョージは口を開いた。

「ママ、上の階から始めていこうよ。掃除は上から下にって言うだろ? で、ママたちは東側から、俺たちは西側から掃除していく。これでどう?」

 俺たちは、ジョージはロンとハリーの肩を同時に叩いた。ハリーの身体が震える。少し強く叩き過ぎてしまったかもしれない。ジョージは謝罪の気持ちを込めて今度は優しくハリーの背を数度叩いたが、さらに身体が強張ってしまった。悪いことをしてしまったようだ。

 母はジョージの提案を検討しているようで、ジョージとロン、続いてハリーを見ていく。それからジニーとハーマイオニーを見て、ニッコリと笑った。

「いいわよ。じゃあ私たちは東から行きましょう。さあ、ハタキと雑巾を持って。おまえたちもしっかり掃除をするんですよ」

 母がおまえたち、と語気強く言った相手は確認するまでもなく自分とロンであることはわかった。

 ジニーたちの背を押しながら出て行った母は、ハリーに「よろしくね」と微笑むのを忘れなかった。

 部屋に残された三人の内、一番早く動いたのはロンだった。

 さて、と腕を組み、ニヤリと口の端を吊り上げてジョージを見遣る。

「一体どういう企みがあるわけ?」

 弟の言い様に、ジョージは大袈裟な身振りで嘆く真似をした。

「おお、我が弟よ。企みとは酷いな。俺はただ、ママを助けたいだけだよ」

「へー、そう? で、本当のところは?」

「……西の一番外れの部屋が丁度いい空き部屋だったもんでね。俺たち、あそこをちょっと拝借してたんだ。ママから隠れるのにも良い位置だったし。もしかしたら、あの部屋にちょっとした忘れ物をしてるかもしれなくてね」

 ジニーやハーマイオニーに見つかったとしても、母に告げ口はせずにいてくれるかもしれない。

 だが、彼女たちよりも、より融通のききそうなロンとハリーと共に掃除ができるように仕向けたのだ。

「あらかた回収してあるはずだが、何か残してたら不味い。ママが様子を見にくる前に、さっさと始めようじゃないか」

 ジョージはロンとハリーにホウキとハタキを持たせた。肩を組み、意気揚々と部屋を出る。

 兄の尻拭いの手伝いをすることになると悟ったロンは不貞腐れたような顔をしている。対するハリーは不貞腐れてはいないものの、やや堅い表情をしているようだった。ジョージたちの残した(かもしれない)悪戯グッズを警戒しているのだろうか。それにしては表情が硬すぎるとも思ったが、考えても答えは出そうにない。ジョージは思考を切り替えて目的の部屋に向かった。

 数日ぶりに訪れた、西の外れの部屋は、最後に見たときと同じように薄汚れていた。

「ウヘェ、ジョージたち、ここを使ってるときにどうして掃除してくれなかったんだよ」

 天井の煤をハタキで叩きながらロンがぼやいた。ハンカチで口と鼻を覆っていたが塞ぎきれなかったらしく、時折ゲホゲホと咳き込んでいる。

「俺たちはちょっとした空間があれば十分だったのさ」

 ジョージは窓際のわずかなスペースを指した。キャビネットを動かして作っただけの空間だ。

 カーテンを閉め切ったままだったので暗くて埃っぽかったが、手元をいじるだけなら十分だった。

「ロン、とにかくやるしかないよ。おばさんが納得できるくらいの掃除をしなくちゃ……っくしゅん!」

 ハリーはマホガニーの椅子を運び出しながら言った。椅子に貼られたベルベット生地に積もった埃が舞ったのかくしゃみが出ている。

「ハリーもこいつを巻けよ」

 ジョージはズボンのポケットから鮮やかなオレンジ色スカーフを出した。

 ハリーはジョージの差し出した手をじとりとした目で睨めつけてきた。

「それ、君のところ商品じゃないよね?」

「まさか! これはただのお洒落なスカーフさ。俺は真っ白な布をオレンジ染めただけ」

「じゃあ、今はまだ何でもない、普通のスカーフなんだね?」

「もちろん、まだね。まぁ、明日にはどうなるかわからないけど、今のところ、こいつを巻いたからと言って君の可愛い声がアヒルのようになることはないよ」

 ジョージはもう一度、ハリーに向かってずっと差し出した。ハリーはまだ疑わしげにスカーフを見ていたが、しばらくして控え目な手つきで受け取った。

 ハリーは自分の鼻と口を覆い、数度呼吸を繰り返してから、「あー」と小さく発声をした。何の変化も起きないことを確認してからやっと安堵した目で見上げた。

「ありがとう、ジョージ」

「どういたしまして」

 大仰な仕草で頭を下げ、返礼を述べてみせる。

 ハリーが再び調度品の撤去作業に向かうのを見届け、ジョージももう一枚のスカーフを取り出して自分の鼻を口を覆った。

 こちらにはすでにWWWのロゴを印字してある。こちらを渡した方が、より警戒しただろうか。

 ジョージは小さく笑みをこぼし、窓際に置かれた家具を動かした。隙間に落としたものがあるかもしれないので念入りに探す。

 横目にちらりとハリーを見てみた。

 顔を半分を隠してしまっているせいか、いつもより目が印象深く見える。

 今やっと気づいたが、思っていたよりもまつげが長い。雪が降ったら積もってしまいそうだ。

 長いまつげの下に隠れる目は――これは前から知っていたことだが――綺麗だ。屋内の、それも締め切った、薄暗い部屋の中に差す、わずかな光を受けているだけであるにもかかわらず、きらきらと輝いて見える。

 まさか、あの目は宝石でできているのではないだろうか。

 下らないことを考えていると、ハリーと目が合ってしまった。

 ジョージはおどけた表情を作り、眼前の家具へ視線を戻す。

 ハリーに背を向けたが、まだ彼がこちらを見ているような気がした。じりじりと焼けるような熱さを背中に感じる。

 後ろを振り返ってみる。ハリーが素早く目を逸らすのが見えた。もう一度、家具に視線を戻す。やはり背に視線を感じる。再び後ろを見てみた。ハリーはまた、慌てて目を逸らしたようだった。

 思わず苦笑してしまった。

 気になるものの、敢えて口に出すのも憚られる。

 どうしたものか、と思案しているとロンが呻き声を上げた。

「ウヘェ、こっちの天井に酷い染みができてるよ」

 部屋の奥、天井の隅をロンが見上げている。

 雨漏りとは違う染みが広がっていた。黒いインクをぶちまけたような染みだ。――ような、と言うでもなく、正しくインクをぶちまけて作った染みなのだが。

「俺たちが『インク花火』を作ってるときにやっちまったやつだな。壁のは落としたんだけど、天井に残ってたか」

「やっぱりジョージたちか」呆れたようにロンが言った。

「これ、落ちるんだよね?」

 疑わしげにこちらを見てくるロンに、ジョージは「まぁね」と軽い調子で応える。

「『インク花火』と一緒にインク落としも作ったんだ。そいつを使えばすぐ落とせる」

 うっかりしてしまうと壁紙の柄まで落としてしまうので、まだ改良が必要な薬剤だ。しかしながら、インクの染みを落とすだけなら薄めて使えばいいだけなので今使う分には問題ない。

「インク落としは俺たちの部屋だ。取って来るよ」

 持っていた家具を廊下へ出しながらジョージが言った。

 如何とも言い難い気まずさを感じ始めていたところだったので丁度良かった。

 だが、ロンが「待って」と制止する。

「ジョージがいない間に悪戯グッズにうっかり触ったら大変なことになりそうだ。僕がインク落としを取りに行くから、ジョージはグッズを探しておいて」

 ロンは持っていたハタキをジョージに押しつけて廊下へ出て行ってしまった。

「インク落としは俺の鞄の中に入れてある。緑色のガラスの小瓶だ。間違えるなよ」

 去って行くロンの背中に声をかけた。ひらりと手を振って応えたロンにいささかの不安が残る。

 どうしても自分で見つけられなければ戻ってくるか、フレッドを探して訊くだろう。

「じゃあ、俺たちで掃除を続けるか」

「……うん」

 ハリーがやや上ずった声で返事をした。

 気まずさから逃げるために部屋から出ようとしたのに逃げられなかったせいで、気まずさだけが残ってしまった。

 部屋の中の家具も、運び出せそうなものは運んでしまっている。

 ひとまず、ロンから受け取ったハタキで壁の上部の埃を叩き落としていく。

「あ、あのさ、ジョージ」

 沈黙に耐えかねたのか、ハリーが口を開いた。

「ウィーズリー・ウィザード・ウィーズは順調?」

 ハリーはホウキで床を掃きながら訊ねてくる。

 ちらりとジョージに一瞬視線を向けるも、ほとんどホウキの先から目は動かさなかった。

「もちろん、順調さ。君から受け取った想いは大切にしているよ」

 昨年、ジョージたちに大金を寄越してくれたのはハリーだ。

 ハリーがあの金を自分の懐に入れたくなかった理由もわかるし、ジョージたちのやろうとしていることを応援してくれている気持ちも伝わった。

 ジョージもフレッドも、ハリーから受け取ったものを無駄にするつもりはなかった。

「う、うん。そうだよね」

 言いながらホウキを動かす手つきは先ほどよりも早い。埃が舞い上がってしまっているが、ハリーは気にならないようだ。

「あのさ、その、ここに置き忘れたかもしれないものってどんなのだったの?」

 視線をホウキの先に縫い付けたまま、慌ただしくハリーが訊ねてくる。ジョージは天井の染みを見上げながら答えた。

「あるとしたら『インク花火』だな。さっきも言ったけど、あの染みを作ったやつだ。着火すると、火花じゃなくてインクを吹き出す」

 今はまだ黒いインクで試作している。本格的に商品化するときにはもっと鮮やかで色とりどりのインクを入れるだろう。インクを簡単に落とせる薬剤を同時開発しているものの、花火に使うインクそのものをもっと洗いやすいものに改良する必要があるかもしれない。

 正式に商品とするには、まだまだ直す余地がある。

 ハリーはやっと手を止め、天井の染みを見上げた。

「じゃあ、もしもあるならこの辺りかな」

 天井を見つめたまま、染みの真下にハリーは移動した。

 そこに置かれていたキャビネットは既に外へと出している。埃が隅に溜まっているだけだ。

 ハリーはきょろきょろと周辺を見渡して、すぐ脇のカーテンに触れた。

「カーテンの裏にあるのかも――うわぁ!?」

「ハリー!」

 締め切られていたカーテンをハリーがめくった途端、隠れていた花火が暴れ出した。カーテンの窓の間に滑り落ちたまま、燻っていたようだ。

 花火はハリー目がけて飛び出していく。

 ジョージは大股で駆け出し、ハリーの身体を抱えて背にかばった。同時に、花火は堰を切ったように勢いよくインクをぶちまけてくる。

 顔に生ぬるい液体が思い切りかかった。ヘドロのような臭いが鼻をつく。インクは入れ過ぎだし、時間経過で状態も悪くなっている。

 これも見直す必要があるな、とジョージは溜息を吐いた。

「ハリー、無事かい?」

 大部分はジョージが被ったようだし、ハリーもスカーフを巻いていたから顔への被害は少ないだろう。それでも多少、ついてしまったかもしれない。

 そう思って覗き込んだハリーの顔は真っ赤に染まっていた。

 ハリーの顔を染めている赤は、どう考えてもインクによるものではなかった。花火に使ったインクは黒だ。不透明で、べっとりとまとわりつくような黒いインクである。赤いインクも今後は使うかもしれないが、まだ試作もしていない。

 羞恥からか何からなのか、全身の血が顔に集まったのかというほど、ハリーの顔色がを変わっていた。

 さらに、ジョージの気のせいでなければ、ぴったりと密着したハリーの胸から、「暴れ球」もびっくりなほどの勢いで動く心臓を感じる。

 しばらくぼんやりとジョージを見つめていたハリーは、ハッとしたようにジョージの腕の中で身じろぎした。

「だ、大丈夫! 僕は平気! かばってくれてありがとう」

「あ、ああ」

 ジョージの腕から力が抜ける。

 ジョージから抜け出したハリーは、ジョージに背を向けた。続いて、自分の頬の温度を確かめるように手で触れている。

 まさか。

 ジョージの中に、あまり望ましくない、ある一つの可能性が浮かぶ。

「今、すごい音がしなかったか?」

 バタバタと駆けて入ってきたフレッドのおかげで思考は中断された。霧吹きを片手に持ったフレッドに続いてロンが入ってくる。

「なに? 何の音? ワォ、ジョージ、すごいことになってるよ」

 半身が黒く染まっている自覚のあるジョージは口の端をわずかに上げるだけで返事を留める。

 フレッドは一目で大体の状況を把握したらしく、ジョージに軽い笑みを向けてからハリーの状態を確認した。

「結構ついちまってるな。俺たちの花火のせいで悪かった。眼鏡を貸してくれ。薬を薄めて霧吹きに入れてきたから、いま拭き取って綺麗にする」

「うん……お願い」

 ハリーはフレッドに眼鏡を渡した。ジョージに背を向けているので表情はわからない。

 フレッドは受け取った眼鏡に薬を吹きつけると、ハンカチで丁寧にインクを拭き取った。続けて、ハンカチにもう一度薬を吹きつける。

「顔も拭くぞ。目を瞑って」

「……うん」

 ハリーが瞼を下ろすと、フレッドの動きがわずかに止まった。

 ほんの一瞬だった。すぐにハリーの顔を優しく拭き始める。恐らく、ロンはフレッドの様子に気づいていない。しかしジョージには、フレッドが何を思って手を止めたのかわかるような気がした。

「これで顔のインクは取れたと思う。……あ、悪い。目に入ったか?」

 ハリーの顔が赤みを帯びていることに気づいたフレッドが、心配そうに訊ねた。

 フレッドの問いに、ハリーはゆるゆると首を振って応える。

「ううん、入ってないよ。ありがとう、フレッド」

「どういたしまして。ジョージは自分でやれるよな」

 フレッドの投げ渡してきた霧吹きを片手で受け取る。もちろん、と答えたジョージの声が気のない調子だったことにフレッドは片眉を上げたが、フレッドは何も言わなかった。

 その後、薬剤のおかげでジョージについたインクも天井の染みも綺麗に落ちた。更に、4人がかりで真面目に掃除に取り組んだおかげで、部屋は見違えるように美しくなった。

 しかし、騒ぎを聞きつけた母に叱りつけられ、おまけにWWWの商品も没収されてしまったので、結果としてはあまり良いとは言えない状態で終わった。

「インク花火」もその他の商品も、隠し持っている分はまだ取られていない。今後の運営に影響がないのは不幸中の幸いだった。

 母の説教を聞いている最中も、ジョージの頭には一つの光景が焼きついて離れなかった。

 自分の腕の中で真っ赤になるハリーの顔。

 ジョージにも伝わるほどに強く激しく脈打つハリーの心臓。

 どれも、一つの事実を示しているようで、落ち着かない。

 ジョージにまとわりついたインクは全て落としきったはずなのに、まだべっとりとした何かがまとわりついているような気がした。

 

第2話 了

感想